【ここ喫ー4】運と努力の涙ぐましい関係。(前編) ー努力って何なのよ?ー
- 2015/8/26
- ここ喫

みなさん、こんにちは。高性能低気圧センサー内臓のきよてっくです。
「努力」は必ず報われるとは限らない。
最たるものはギャンブルだ。死ぬほど努力しても、今までの負けを取り戻すことは出来ない。いくらデータをとっても戦略を立ててもギャンブルという分野で「努力」を成果につなげることは難しい。
これがわかった時、ワタシは努力するのをやめた。
こういうと「それはギャンブルだからだよ」とか「本当の努力は嘘をつかない」とか「途中で諦めるから報われないだけ」というヒトもいる。でも大抵のヒトは努力したって報われない時があると感覚的に知っている。それに「努力」するとほとんどのヒトが成果を出す前に疲れ果てて終わる。
「真理」という言葉がある。これを辞書で調べてみると、
『真理』とはいつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。
とあった。『真理』とは全てに共通し、しっくりくるものであるということ。時空も世代も国境も超えてバシッと気持ち良く当てはまるのが『真理』だと言える。
努力が必ず報われるもので、誰もが言うように尊い行為ならば、ギャンブルにも犯罪にも努力した分だけ成果が顕れるはず。それにダイエットや受験など自分のためになる努力でさえ続かない事に説明がつかない。「努力の頓挫」という悲しみは世界中に溢れていて、善良な誰かを苦しめ、真面目なヒトの自己肯定感を下げる。それって絶対『真理』じゃないじゃん、ときよてっくは思うのである。
そもそも「努力」とは何か。
辞書で「努力」を調べてみると、
目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。
とある。
要するにいつも以上の能力を意識的・継続的に発揮している状態。努力するのが好きなヒトは構わない。だけど世の中、努力が好きなヒトばかりではない。普段使わない筋肉を使うとあちこちが痛くなるのと同じで筋トレが好きな人以外、好んではやらない。それに骨を折るという例えが痛々しい。ワタシも何回か骨を折ったことがあるが二度と味わいたくない痛みだ。女の股に力、という字の成り立ちも恐ろしい。出産の時の痛みを思い出させ、痛いのが苦手なワタシは再び戦慄が走るのである。
では、「報われる」とは?
「報い」で調べたら
善行や悪業の結果として得られるもの、または身に受けるもの。果報。
と載っている。(報われる=未然形。報われた=努力が成果につながること。)
報われるとは欲しい結果が手に入ること、だと思う。誰だって欲しい結果は、欲しい。必ず望んだ通りになるのなら努力もできる。
でも、努力しても報われないと知っているから、立ち上がれないかもしれない自分の弱さが怖いから、アナタなら出来る!と言ってくれた人に避けられるのは耐えられないから、信じてるよと本気で言ってくれたアノ人のがっかりした顔を見たくないから、こんなに頑張ったのに受け入れてくれなかった世間を恨みたくないから、何一つ上手く出来ない自分でも傷つける事はしたくないから、だから誰も簡単には努力しない。
とすれば、努力を迫られる(普段以上の能力の発揮を迫られる)過酷な状況においても、ヒトは最善を尽くしていると言える。ワタシを含めた多くの人が自分にとって正しい決断をしている、と言える。
それは誰のための努力か?
今、アナタが何らかの事情で努力を迫られ、自分でも努力をしようともがいているとすれば、大事なのはその努力が一体誰のためのものか、ということ。ヒトは自分のためなら勝手にスイッチが入る。元々誰にでも向上心はあるし、何より「快」を求めて生きるように出来ている。「快」とはヒトによっては(達成感)だろうし、(自己肯定感)だろうし、他者からの(感謝)も自分自身の(受容)も全て「快」を得ることが出来る感覚だ。なのに顕在意識で「頑張ろう」「頑張ったほうがいい」「ここは頑張るべきだ」と自分を奮い立たせないといけないのであれば、それは自分のための努力ではない。きっと誰かをラクにするため、安心させるため、自分以外の誰かを喜ばせ、その人の笑顔を見るための努力なのだろう。
うん、それも悪くはない。
自分の努力で誰かを笑顔にするというのは贈り物としては一級品だ。但し、自分が苦しまないといけないのなら良い贈り物とは言えない。自分も送ることで「快」、相手も受け取ることで「快」、このwinwinが成立してこそ最高のプレゼントになることを覚えておいてほしい。
あら、長くなってしまったわ。本題については後編で話すから、また次の喫煙タイムにでも。
スポンサーリンク